十字の星

fourteen
 珍しく木枯らしが吹いていた。
 その日の2人の気持ちを反映するように、静寂だけがあたりを漂い、流れているはずの時間は止まっていた。
 啓介(けいすけ)は背中から彼女を抱きしめた。
「・・・・・・俺、わがままだよな。いつ帰って来れるかもわからないのに」
 藍(あい)は声をあげずに泣いていた。知らぬうちに溢れ出した心の泉。涙の止め方を知らなかった。
 夕日がずっと向こうで沈んでいく。真っ赤に燃える太陽と、光を吸収した雲が、空の色を変えていた。
「だから、俺は『待っていてくれ』とは言わない」
 別れの時が迫っていた。
 耳にしたくなかった言葉。いつかは聞くことになると思っていた台詞。藍は黙ってうなだれた。
 啓介は、腕に力を込めた。強く、彼女を抱きしめた。
「でも・・・・・・忘れないよ、藍のこと」
 14歳。
 それは、大人になる一歩手前。成長への階段を見つけ出す頃。
 ずっとそばにいた2人は、離れ離れになった。

seventeen
 飛行機の音が豪快に鳴る。
 青い空、白い雲の下には、3年ぶりに見る国があった。変わらぬ街。啓介は故郷に戻ってきた。
 日本の空気に酔いしれるように、啓介はゆっくりゆっくり道を進む。爽快だった。
 大きな白い看板に、はっきりした黒文字が目に飛び込んだ。レジデンス立石。伯父が持つアパートのひとつだ。ここが啓介の新居となる。
 アパートから人影がのぞく。ラフな格好をした男性が、啓介を見て笑顔になった。
「元気だったか?」
 3年。この月日は実に長かった。啓介の身長は10センチも伸びた。顔立ちもぐんと大人びた。肩幅も広がった。
「大きくなったな」
「お久しぶりです」
「おお!? 何だ、お前、敬語を使えるようになったのか?」
「そりゃないですよ。『使えるようになった』って・・・・・・」
 空白の時を埋めるように笑い始めた2人。温かく迎えて入れてくれた伯父に感謝しながら、啓介は日本での新生活をスタートさせた。

 編入した学校に馴染むのに精一杯で、1ヶ月はあっという間にすぎた。
 本人には決してそんな自覚はないが、啓介はそれなりの容姿もしていたし、身長も割かし高い。それに加え、「海外から帰国してきた」と聞けば、いまだ知らぬ世界に好奇心を募らせた生徒の注目が集まる。
 しかし、啓介はいわば平凡だった。やがて、啓介について囁きあう者も減り、転校生だと強く認識する生徒もいなくなった。啓介は環境に溶け込んだのだった。
 他のクラスよりも一足早くHRが終わった。啓介はいつものように自転車置き場に向かった。放課後の啓介のクラスメート達は、完全に真っ二つに分かれていた。この後部活に精を出す者と、電車で帰宅する者とである。帰宅組の中で自転車登校するのは、啓介1人だけだというのだから驚きだ。
 鍵が開く。自転車にまたがり、家路に着くだけだった。
 ふと、誰かが傍で足を止めた。立ち止まっている。その場を離れる気配もない。
 啓介は顔を上げた。
「啓・・・・・・介・・・・・・くん?」
 長い時を越え、凝縮された時間が一気に通り過ぎていった。
 ほんのり茶がかった黒髪。大きな瞳。
 忘れもしない。14歳のあどけなさをどこかに残したまま、あまりにも綺麗になった藍のことを。
 胸の奥深くにあった何かが、息を吹き返していた。
「・・・・・・お帰りなさい」
 何を言うでもなく、藍はそう言ってはにかんだ。
 目の前にいるのは、別れた彼女。
 啓介は戸惑った。何かの行動を取りたい自分がいるのに、過去が邪魔をしていた。
「ただいま」
 一言。これが今の啓介にできるすべてだった。
 知り合い? 友達? それとも・・・・・・。
 会えない時間に、電話も手紙もなかった。それぞれの人生を歩みだし、2人の間につながりは消えていた。いっぱい話したいことがあるはずなのに、言葉は出てこない。
 戸惑っていたのは、藍も同じだった。
 元気にしてた? いつ帰ってきたの? 久しぶりだね。
 簡単な挨拶ですら口にできず、沈黙が流れた。
 やっとのことで何かを口にしようとしたのは、2人同時だった。が、皮肉なことに、それらは未遂に終わった。
 HRを終えた生徒達がどっと流れてきたのだった。狭い空間に押し寄せる波。視界にお互いを収めることができなくなった。
 ぼうっと向こう側を見つめる啓介。そんな啓介は、自転車を動かす生徒達の邪魔でしかない。肩が触れた。はっと我に還った啓介は、申し訳なさそうに通路を開けた。
 下校する生徒がまばらになってきた頃には、視線の先に藍の姿を見出せなくなっていた。
 夢? 幻?
 どちらでもない。瞼に焼きついたのは、紛れもなく藍の姿だった。それが、3年の月日に終止符を打つ再会だった。

 編入したての頃に皆がイメージ付けたほど、啓介は器用ではなかった。だからこそ、後に騒がれることもなくなったのだ。あれこれ生徒達は噂したかもしれない。啓介を実際以上に優秀に予想したかもしれない。けれど、あくまで啓介は平凡だった。
 アメリカでできた友人達は、啓介よりずっと端正な顔立ちをしていたし、ずっと背が高かった。スポーツも万能だった。啓介がとりわけ目立って1番になれるものなどなかった。それが幸いしてか、見事に皆のマスコットの座についた。おかげで、海外生活はとても楽しいものだったが、秀でた何かを持って自信をつけたわけではない。また、啓介自身もそれ以上の欲を持たなかった。
 不器用な啓介が、その後、藍との間に何かの行動を起こせなかったのは言うまでもない。何度か藍に声をかけようと試みたものの、すべて未遂に終わっている。
 何を言えばいい? どうやって声をかけるべきだ?
 いらぬ考えだけが頭を巡る。
 そんなこんなで心の葛藤をしている啓介が知った事実は、2人の間を更に遠ざけた。
 藍は校内のアイドル的存在だった。私情も入るが、啓介も否定できなかった。藍の周りにはいつも誰かがいて、啓介は固められた空間に置き去りにされていた。見えない壁がいつでも存在していた。
 結局2人は、言葉を交わすこともなかった。
 無意味に時間だけが過ぎていった。

eighteen
 はたから見れば、可もなく不可もない生活は万事うまく進んでいるようであった。しかし、メリハリのなさ過ぎる生活は、無意識下で虚無を感じさせていた。高校3年。将来を決める大切な時期に、身が入らなかった。
 どこということもなく天井を見つめたまま仰向けになって寝転んでいた啓介は、急に起き上がるとたんすの引出しを開けた。がさごそと漁って見つけた数枚の写真。ほほえましい家族が、懐かしい日々を思い出させるように写っていた。
 14歳の時、啓介は親の都合で日本を旅立った。両親と妹はまだアメリカにいる。啓介だけが単独日本に戻ってきたのだった。何の目的があったわけでもないが、なぜか高校生活半ばには日本に戻るというプランが、啓介の頭の中に出来上がっていたのだ。
 1枚1枚、大切な写真を見ていく。そして、最後の1枚で、啓介の手が止まった。
「藍・・・・・・」
 その名を口にしたのは、実に4年ぶりだった。
 未来への不安などを考えることも知らなかった幼い2人の満面の笑顔。手を伸ばしても決して追いつけない思い出の写真だった。
 17歳の時に再会したきりだった。廊下ですれ違うことがあっても、まるで逃げるように避けるように声をかけなければ顔すら見なかった。
 どう接していいのかわからない。
 2人の距離は、それで隔たった。まとまらない考えに焦りを感じ、心の準備ができないうちは、声をかけられることも目が合うことも恐れていた。
 何の関係もない。
 それで収まりきらない気持ちが、宙ぶらりんのまま宛てなく彷徨っていた。

 5月を過ぎた頃、全校生徒が作り出した渦のど真ん中に藍がいた。藍と同級生の平井(ひらい)が付き合っているという噂が広まったのだ。この噂が駆け巡るのに、そう時間はかからなかった。
 文化祭で大活躍をするバンドがある。去年も確か女子の黄色い声援が飛んでいた。平井はその超人気バンドのドラムを担当していた。
 美男美女カップル誕生で、意気消沈した生徒も少なくない。しばらくは自棄になって、男子は平井を、女子は藍を批判していたが、心のどこかでは敵わないと思っていたのだろうか、やがてクレームはなくなっていった。
 落ち込まなかったと言ったら嘘になる。啓介は本当の意味で、恋が終わったことを知ったのだ。多少抱いていた期待は、儚く散った。けれど、これでよかったんだとも思った。心だけが藍と一緒にいた頃に置き去りにされていたからだ。それに気付いた時、啓介は成長しきっていなかった自分に手を振った。
 誰も想像しなかっただろう。事態はそれからまもなくして思わぬ展開を迎えた。
 一部女子からあがった声が生徒の間を駆け巡り、勝手なままに皆が作り上げていた藍のイメージに傷がついた。ここぞとばかりに、平井に憧れていた女子達は藍を中傷した。藍に失恋した男子達の不満は膨れ上がり、やがて藍は悪者扱いされるようになっていった。
 俺が首を突っ込む問題じゃない。
 部外者の啓介は、それを見過ごすしかなかった。
 どうしてこれほどまでに胸騒ぎと罪悪感に苛まされるのだろう?
 いつの間にか藍を取り囲んでいた者はいなくなっていた。藍は日に日にやつれていった。藍を遠くから見かけた時でさえ、啓介は思わず顔を背けてしまった。輝かしいまでに美しかった藍の姿はどこにもなく、心身ともに気力を失った姿がただ痛々しかったのだ。
 ついに、藍は学校を休んだ。
 気が気でなくなった啓介は、学校から帰るなり受話器をとった。
 番号は覚えている。4年間、向き合うことのなかった電話番号だった。自然に指は動く。何度も何度も押した番号だったことを痛感させられた。
「はい・・・・・・」
 電話に出た藍の弟の言葉を遮って、啓介は訊いた。
「藍、いる?」
「え? もしかして、啓介さん?」
 もともと幼馴染だった。当然のように、啓介は藍の弟と面識があり、一緒に遊んだこともある。啓介からの電話がなくなって4年。突然の電話に戸惑いを隠せないまま、雅紀(まさき)は答えた。
「姉貴? いや、いないよ。まだ学校から帰ってきてない」
 学校から帰ってきていない?
「わかった、サンキュ」
 受話器を置いた啓介は、外に飛び出した。藍は少なくとも学校に行こうとして家を出たのだ。でも、結局学校に顔を出していない。頭の中でいろんな事を整理しながら、啓介は心当たりを探した。
 事の発端は、平井のバンドの大ファンであった女子生徒の一言だった。親友以外には秘密にしていたのだが、平井と彼女は付き合っていたのだそうだ。かなり仲がよかったらしく、いきなりの別れ話に彼女は首をかしげた。それから1週間もしないうちに藍の存在が浮かび上がる。「横取りされた」の発言だけで十分だった。平井に恋敗れた女子達の間にも一種の不可解な連帯感が生まれ、藍いびりが始まった。
 やるせない思いをぶつける的、振られた腹いせにされていないだろうか? 俺の意見は藍に偏っているかもしれない。不公平に藍を味方しているかもしれない。でも・・・・・・。
 がむしゃらに走っていた啓介は、足を止めた。あたりは暗くなりつつある。星が空に煌きだしていた。遥か彼方から届く光を眺めていた時、藍の居場所に気付いた。
 街を見渡せる場所がある。それは小さな山のてっ辺に続く道の途中。今はもう閉じられた保育園の庭。啓介は、坂道をひた走った。
 案の定、藍はそこにいた。ジャングルジムの上に一人佇み、夜空に十字を描き出した星を見ていた。
「・・・・・・藍」
 懐かしい声。一人ぼっちの心に語りかけてきたその声に、藍は切なくなった。同時に、思いがけない出会いに驚きを隠せなかった。
 啓介は藍の返事を待たずに、ジャングルジムを上った。大きく感じていた遊具は、今はむしろ小さすぎる感じがする。藍の横に腰掛けて、同じように空を見た。
 お互いに何もしゃべらなかった。けれど、藍はやっと居場所を見つけたような安心感を味わっていた。我慢していた涙は、封を切って流れ出した。それでも頑なに、自然な態度を守ろうとしていた。啓介もそれに気付いていたから、藍を振り返らなかった。でも、そんな決意は長くは持たなかった。
 強引に藍の腕を引っ張ると、啓介は藍を抱きしめた。藍は久しぶりに人の温かみを感じた。そして、そのまま啓介の胸で泣き崩れた。

 あれから、藍と啓介は昔のように一緒にいる時間も増え、しゃべるようにもなった。離れ離れになっていた時間を取り戻すように、いっぱいいっぱい話した。
 事態の重さを知った平井が別れた彼女と話をし、彼女は藍に謝罪してきた。
 それから、藍を中傷する生徒はいなくなった。事実を知った後、皆ばつが悪い顔をしていた。
 藍と平井は付き合っていなかった。どうやら平井たちはうまくいっていなかったらしい。仲がよかったのは、前の話なのだそうだ。結果的に、平井の心は離れた。藍と平井が特別仲がよかったわけではないが、彼女の目には何かと目立ってしまう藍だけが映った。そうなると、情緒不安定になっていた彼女には、あまりにも偏った見方しかできなくなり、付き合っているという噂も、彼女が自爆して流してしまったようなものだ。爆発的に流れた噂を否定しても、周りは納得しない。たとえそれが真実であったとしてもだ。藍も平井も噂を無視していたが、それすら裏目に出た結果になった。
 校内の様子は、元に戻りつつあった。藍も笑顔を見せるようになった。
「いただきまーす」
 ここにも藍の笑顔がある。
 啓介は今日、藍の家に夕食をご馳走になりに来ていた。幼馴染ということもあって、昔はこうしてよく一緒に夕飯を食べていたのだ。
 栄養を蓄えた後は、雅紀の部屋にお邪魔した。ずいぶん綺麗になっていた。プラモデルやおもちゃのロボットなどが散乱していた頃が懐かしい。
「じゃあ、帰ってきて1年になるんだ」
「だいたいそのくらい」
「どおりで・・・・・・」
 雅紀はベッドに腰を落ち着け、壁に体を預けた。濁した言葉の続きを言う前に、思惑を持った笑みを浮かべていた。
「何だよ!?」
「姉貴が啓介さんのこと口にするようになったから」
 藍が?
 ちょっと赤面。もちろんこれは隠している。だけど、嬉しさを顔に滲み出さないようにするのは苦労した。
「・・・・・・復活、したの?」
 ストレートな言動は相変わらずのようだ。
 啓介は、飲んでいた紅茶を吹きだすところだった。寸前で止めて、咳き込んだ。肩で呼吸する。落ち着いたところでやっと口を開いた。
「いや、別に・・・・・・」
 目を見開いた雅紀が放心した。
「何で?」
 その一言で精一杯だったらしい。
「『何で』って・・・・・・」
 言葉に詰まった。言い訳はいくらでも作れるけれど、本心を見極めるのは難しかった。むしろ、それを探すことを恐れていた。
「啓介さん、姉貴のこと、まだ好き?」
 ズシーンと響く。雅紀の言葉が頭の中で木霊するのだ。
「・・・・・・」
 何も答えられなかった。答えれない啓介自身よりも、雅紀のほうが気付いていそうだった。何回も「ねぇ、ねぇ」と急かされる。雅紀が知っている答えを本人の口から言わせたいようだ。
 嫌いになったわけじゃない。好きって気持ちが消えたわけじゃない。むしろ、俺は日本に帰ってからずっと、藍のことばかり考えていた気がする。もう二度とこんなふうに一緒に時を過ごすことがないだろうと割り切っていたアメリカ生活は、どこか遠い夢物語に変わっていた。
 心の葛藤に、雅紀が声をかけた。
「姉貴、待っていたと思うよ」

 藍が地方の大学を目指していると知ったのは、秋も半ば、受験生の追い込みの時期だった。
 緊張感が足りない啓介は勉強に身が入らなかった。合格圏内の近場の大学が第1志望になっているが、とりわけ意味を持ってのことではない。
 教科書を閉じた啓介は、ふぅとため息を吐いた。時計は午後10時半を回ろうとしていた。
 ふと思い出して上着を取った。そして、部屋を出る。
「啓介くん!?」
 塾帰りの藍を待っていた。
 冬が近いせいか、夜は冷え込む。来る途中で買った缶コーヒーを一つ、藍に手渡した。
「ありがと」
 小さな公園で、たった10分のデートをした。
 藍は昔から夜を恐がっていた。啓介はそれを理由にしていたが、本当は、会いたかっただけなのかもしれない。
 そのまま季節は巡り、クリスマスもお正月も平凡だけれど忙しくすぎていった。
 高校生活の最後は、学校に足を運ぶこともほとんどなくなる。皆、それぞれのことに手一杯になっていたが、今度はすれ違わなかった。塾の迎えに行ったり、時には、1分でも2分でもたった一言でもいいから電話をした。
 世界が白く染まる頃、吐く息すらも白くなった冬、深深と降り積もる雪の中を歩いていた。
 試験の結果を待つばかり。神社にお参りに行った時に必勝祈願として藍と交換したお守りは、今もコートにしまわれている。
 雪道は、思っていたより足をとられた。
 藍不在の家で、雅紀とみかんを食べながらコタツに丸くなっている。
「ったくどこ行ったんだろう? 姉貴は。せっかく啓介さんが来てくれたのに」
 雅紀はぶつぶつと文句を言っていた。
「あーあ、なんか変な感じ」
 それに続く言葉は容易に予測できる。ずっと一緒だった姉が、どこか遠くに行くのだ。そう、今度は藍がいなくなるのだった。
「啓介さん、いいの?」
 あたりまえのように一緒にいた。一緒にいるほうが自然にすら思えた。今更、何をどう変えればいいのだろう? 否応なしに、時は二人を別つのに。
 ミカンを一つ、口に放り込んだ。
 藍がいなくなる。
 また、4年前と同じように離れ離れになることを想像した。そう試みて、想像できなかった。
 啓介の視線は、ミカンから離れない。けれど、堪忍したように言った。
「藍が・・・・・・他の男といるところは想像できないよな」
 雅紀が満面の笑みを零していた。

 友人達と仲良くお茶していたらしい藍が帰ってきた。
 最初は、3人でテレビを見ていたのだが、やがて何だかんだと理由をつけられて、雅紀に追い出された。
 雪はもうやんでいた。紺色のグラデーションには星という名のビーズが散りばめられている。
 冷えた体を温めるための何かを買いにコンビニに立ち寄った。
 会計を済ませている間に、外に出た藍はナンパされていた。
 啓介が近づくと、声をかけていた男の一人が、「あっ」と漏らして固まる。
「先輩?」
 中学の時の後輩だった。
 後輩は横にいた仲間2人に目配せする。
「・・・・・・啓介先輩の彼女!?」
 啓介と藍が向き合った。返答に困ったのだ。
 昔の彼女。今の彼女。友達。
 どれもいまいちな回答だった。
 後輩は何かを思い出したように、急にしどろもどろしだした。
「あ、じゃあ、俺たちはこれで。先輩、また・・・・・・」
 そそくさと退散していく。
 別に2人で決めたわけじゃない。けれど、お互いに同じところを目指していた。
「藍にはやっぱり誰かそばにいてくれる男が必要だな」
「・・・・・・」
 藍は無言で振り向いた。
 コーヒーを一口煽ると啓介は続けた。
「さっきみたいのがいる。だから・・・・・・」
「だから?」
「たとえば・・・・・・」
「たとえば?」
 雪に庭を埋め尽くした保育園に着いたところだった。
「・・・・・・俺、とか・・・・・・」
 真っ暗な空間に、星だけが輝いていた。
 飲み終えたコーヒーの缶を捨てると、藍は子供のように雪の中へ駆けていった。
 ジャングルジムの向こうにフェンスがある。フェンスに手をかけた藍が、食い入るように天球を仰いだ。
「夢中で遊んでいるうちに暗くなってたり、夜にお出かけする時、いつでも啓介くんがそばにいてくれたでしょ!?」
 その口調は藍自身に言い聞かせているようだった。
「私、いつも夜を嫌ってた。だけど、啓介くんが言ってくれた。覚えてる?」

 暗くなったら空を見ればいい。十字に光る星はいつでも明るいから。

 いつか言ったこと。記憶に鮮明に残っている。
「あの言葉で私、少し強くなれたんだよ」
 藍は、振り返った。
「でもね、言葉より何より、一緒にいたい」
 プツン。
 途切れたのは何の枷?
 左手をフェンスにかけたまま、啓介は藍に口付けた。
 藍の瞳をしっかり捕らえて、4年間、言えなかったことを口にした。
「やり直そう、俺たち」

 その春、啓介は近くの大学へ、藍は県を隔てた大学へと進学した。
 遠くに行く藍を見送りに行った日も、十字に並ぶ星星が夜の空を彩っていた。




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2002.6.