夏草が茂る丘


 それは、偶然の2乗よりずっと遠いところにあるような話。
 それでもなぜか、私はつながった。奇跡と呼ぶには悲しすぎる真実に。
 いくつものピースが形をなして、大きな歴史はやがて昔語りになるけれど、秘められた想いは、誰も知らない。


 時は、世が混乱の渦に陥り、姜子牙(=太公望)が『封神』の天命を受けた古代中国に遡る。
「飛淵様、一休みしてお昼にいたしませんか?」
「もうそんな時間か。そうだな」
 眉間の皺がほどけていくような気がした。
 ほんの一時でいいから、肩の力を落とせる瞬間があること、それがこの上ない至福。
 ささやかだけど、かけがえのないものだった。
 落とした視線の先に、墨や筆。一見して文学に精通している者を表している。
 飛淵様は、今日も難しい顔をなさって、筆を握っていた。『周』がささやかな平和をもたらしてくれることを願って。
 それは危険な挑戦であることを、幼い子供でさえも熟知だった。
『無理をしないで』と言葉に変えれたらいいのに。
 私には、命を賭して運命に立ち向かう彼の意志に抗えるほどの覚悟が足りない。
「優月、今日は一緒に街に行こう」
 ふと顔を上げると、そこには穏やかな笑顔があった。
『大丈夫』と語りかける表情に、何もかもが嘘のように癒された。

 癒しの中で、ゆったりとした時間の中で、眠れたらいいのに。
 甘くない現実が胸を痛めつける。
 つーんと鼻を刺激するにおい。
 思わず顔をしかめた。
 時の流れはすぐそこまで押し寄せてきている。
 それは、誰もが本当は気づいている。けれど、気づかないフリをする。せめて一秒、自分がまだその輪の中にいないことを祈って。
 見上げた飛淵様の横顔は、どこかずっと遠くを見据えていた。
 未来を感じていたのかもしれない。
 時々、何か大きなことが起こる直前、飛淵様はそれを肌身で感じるのだと言っていた。
 無数に張り巡らされた路の中から、一つ、つながっていく未来。そのたった一つを読み取るのだそうだ。
 わかるようでわからないことだった。
 そして、飛淵様は言うのだ。「これは戒めの能力だ」と。
 どうしようもなく切なくなる。
 こんな時、私は決して飛淵様には追いつけなかった。
 両手に有り余るほどの何かを感じながら、絶対に拭い去ることはできなかった。
 あなたは、心の奥に、どんな闇をお隠しですか?
 きっと、持て余してしまう。きっと、辛くなる。きっと、逃げ出したくなる。
 弱い私がそこにいて、口にはできない永遠の疑問だった。
 飛淵様が、そっと瞬きをした。
 その瞬間、目頭が熱くなった。
 どうしてそうなったのかもわからない。けれど、私の中の何かが、飛淵様とつながったのだ。
 長い長い一瞬の後、突然、それは姿を表した。
「もうすぐ、来る」
 影のない言葉だった。
 異空間から飛ばされてきたようなその言葉に、空気が重くなった。
「え?」
 放心した私に、じわりじわりと恐怖が滲み寄って来る。
 まさか・・・・・・。
 いつか自分の番がやってくることを恐れていた。風に乗って運ばれてくるにおいだけでなく、争いがここまで来ることを。
 ざわざわとノイズが響く。
 恐怖の具現化だと思った。
 目を開いたら、そこには別世界があった。
「優月!」
 体が大きく横にぶれた。
 景色が流れていた。
 飛淵様に手を引かれるがままに、私は物陰に隠れた。

 ヘイワハ ドコニ アル?

 いつか、飛淵様が言っていた台詞が過去を駆け巡って木霊する。
「優月、ここに隠れていなさい」
 やっと焦点の合った目には、飛淵様の形容できない表情が映った。
 ここに隠れていなさい? 私だけ?
「飛淵様は・・・・・・?」
 この上なく優しい微笑みの裏に、二度と手にできない愛しさがあふれていた。
 何も言葉にできない。
 私はただ首を横に振った。
「本は、もう完成している」
 本?
「あれは、優月に書いたものだ」
 飛淵様の腕が私を包み込んだ。
「行かれるのですか?」
 最初から答えを知っている問いをした。
 強い思いを誰にも挫くことはできない。
 行かれる。ほんの数メートル先で起こっている争いの中へ。
 武器も何も持たない飛淵様の無事は、どこにも約束されていない。
『行かないで』と心が叫んでいた。
 飛淵様が見た未来、その答えを知ってしまった。
「『周』は理想の国だと思う。俺は、歴史が生まれ変わるのを待っていた」
 存在するのは、英雄だけじゃない。
 時代が脱皮しようとする時、必ず何かが散っていった。必ず何かが弾かれていった。それがたとえ、どんなに小さなものでも、どんなに些細なことでも、誰かにとっては一番大切なはずの何かが。
 飛淵様は今、改革の糧になろうとしている。
「けれど、俺は・・・・・・『商』が生き残るのも望んでいる。人々が焦がれた頃の『商』が」
 ギュッと締め付けられていた体が、軽くなった。
 砂埃が天に煽られるその中へ、飛淵様は消えていった。
「争いを止めろ」と、聞こえるはずのない声が、何よりも澄んで耳に届いた。
 広い背中が、語っていた。

『商』を愛している。

 心の奥の奥で、閉じ込められていた秘密が目を醒ました。
 暗闇から光が絶え間なく漏れだして、とめどなく涙があふれてきた。
「飛淵様―――!!!」
 滲んで見えない視界の向こうにいる、愛しい人の影をずっと追っていた。
 時代に描き出されたドラマの一部が幕を閉じるのと同じように、私もその場に崩れ落ちた。

 何一つ変わりない暗い朝が訪れた。
 違うのは、ただ一つ。
「飛淵様、あなたは・・・・・・」
 私は、憎んでも憎みきれないものを、偽りの中で生きても赦しがあることを知った。
 昔、それを持った時、知らぬフリをした。そのまま、記憶に鍵をかけた。
 大事に大事に布に包まれたもの。
 綺麗な模様の描かれた父の形見のナイフ。
 そこにあったのは、『商』の印章だった。
「同じ痛みを・・・・・・分かち合えたらよかったのに」
 すぐそばで感じた『商』。
 背中が語っていた。飛淵様が『商』の血を継いでいることを。

 イマシメノ チカラダヨ。

 無慈悲に背負うことになった枷が、心をずっと悩ませていた。
 とっくに目をつけられ、いつ狙われるとも限らない緊張の中で、平和を訴える本を書き続けた。
 信念の刃は、その先に待ち受ける『死』を覚悟していたんじゃない、受け入れていたんだ。
 愛したかったんですね、愛していたんですね、未来を前にして取り残されようとしている『商』を。
 世界を真っ赤に染め上げていく国を、どんなに嫌っても・・・・・・それでも私は・・・・・・。
「私も『商』が好きです」
 バサッ。
 長かった髪が、役目を終えて開放されたように、床に落ちていった。
 きっと、あなたは、どこかで私の血に気づいていたのでしょうね。

 ショウガ イキノコルノモ ノゾンデイル。

 怖さから、現実から、目をそむけることをやめた。
 頑丈に張られた臆病という名のガラスが、粉々に砕けていくような気がした。
 もう味わうことのないだろう静寂に身を任せ、飛淵様の遺してくださった本を抱きしめた。

 自分の幸せを勝ち取る為、必死に戦っている者たちがいる。
 額に流れる汗の向こうで、愛する者を命懸けで守っている。
 たった一つ、父の形見を携えて、土煙の戦場に踏み込んでいった。
 沢山のものを守ろうとしていた。未来も、意志も、この血も。

 イツカ フタリデ コノオカニ スモウカ?

 目に映るのは、飛び散る赤い血ではなくて、辺り一面新緑に囲まれた丘だった。
 手にできなかった夢。ずっと願い続けた平和が、幸せが、あった場所。
『必ず』や『絶対』の保証ができないことに涙した。
「過去と未来は、今を通してつながっている。限られた『今』というほんの一時だけに捕われないで、長い道を考えてごらん。心も一緒に、拓けてくるだろう?」
「未来でも、私たちは逢うことができるのですか?」
「できるよ、絶対」
 あるはずのない『絶対』が妙に説得力を持っていた。
 きっとそれは、飛淵様の言葉であって、飛淵様がそばにいたからだ。
「運命がすれ違おうとするなら、俺が引き寄せる。一度巡り逢った魂は、きっとまた惹かれあう」
「きっと?」
「必ず」
 焼きついて離れない緑が、私を支えていた。
 また巡り逢うことができるなら、1%の怖さも消えてなくなる。
「この場所を留めて」
「?」
「その記憶が必ず、ここに連れ戻してくれるから」
 夏草が茂る丘だけが、脳を、体を、心を支配していた。
 誰しもきっと、譲れない思い出や無くせない想いを抱えている。
 それを大事にしたいだけ。
 なのに、望んでいるものは同じなのに、どうして皆で争う?
 幸せの象徴だった『商』が、妲己の手に堕ちて、すべてが鏡の裏側へ飛んでいった。
 千年狐の思惑通り、人々は盤上の駒の如く操られ、そして争いが始まった。
 奪い合うことは、止まらなくなった。
 弱さを強さに換える勇気をくれたのは、あなたでした、飛淵様。
 体に襲う痛みより、心に負った痛みのほうがずっと辛い。
 全身から吹き出す血の先で、あの日、天に吸い込まれていった飛淵様の魂に手を伸ばしていた。
 時代は、生まれ変わることができますか?
 還らない返事に微笑んだ。
 私は、これからやって来る未来に、その答えを託していた。
 感覚が消えていくのと同時に、視界の色も消えていった。
 志を同じくする者が、きっと紡いでいってくれますよね。

 それを封神という。
 封神榜には、天命により『商』と『周』の戦いの中で亡くなる人々の名前が連ねられている。
 この巻物に書かれた人々の魂を戦いが終わるまで封神台に収めておき、その後、新たに神に封じるのが姜子牙の役目だった。
 姜子牙と武王は、徐(飛淵の苗字)家の行く末を案じていた。

 歴史は、定められた運命の中でもがいていたのかもしれない。
 それでも、人々の心に生きた優しさや歓喜の灯火は、誰にも否定できない。
 封神榜にある黄優月の名前が、光っていた。
 たち込める血のにおいと、舞う砂の中から、真っ白な霊魂が、空高く上っていった。




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2003.5.