「はい、もしもし」
『神埼(かんざき)だけど、今度の日曜空いてる?』
僕は壁に掛けられたカレンダーに目をやる。
ただの癖だ。
とりわけ用事が入っていた覚えはない。
「空いてます」
受話器を頬と肩に挟んで、両手を自由にする。
カレンダーは一ヶ月前を表示している。
僕は豪快に切り取った。
『俺、ソフトやってるって前に言っただろ? お前も来ない?』
「・・・・・・行きます」
受話器を置く。
驚いた。
催眠術にでもかかったように、僕は素直に承諾の返事をしていた。
押入れを開けた。
一番奥にあるダンボールに手を伸ばす。
どっしりとした重さが、半端な姿勢だった僕にしりもちをつかせた。
封印という言葉がよく似合う。
厳重に留められていたガムテープを剥がす。
盾にメダルにアルバム。
ここには一番大切な時間が詰まっている。
銀色に光るメダルを外に出し、下のアルバムを取り出す。
写真を見る自分の思いが変わっていることに気づいた。
球場の歓声、砂の匂い、白いユニフォーム、照りつける太陽。
一通りページを捲って閉じた。
もう一度ダンボールに手を伸ばす。
覗き込まなくても、どこに入っているか忘れていない。
ダンボールの内側側面に封筒。
その中には、乱雑に切り取ったメモが一枚。
僕の不恰好な鉛筆の文字。
殴り書きだと言い訳をしても、もともと上手いほうじゃない。
メモを確認してから、もう一度押入れを探る。
前に何かで買った葉書きの予備があるはずだった。
発見。
僕はペンを握る。
なのに、いざ向き合うと、伝えたい言葉を迷った。
カチッカチッ。
時計の針がひたすら回る。
三十分もの間、白い平面と格闘した。
黒がほんの少し、白を支配した。
インクが乾くのを数秒待ってから、僕は葉書きを裏返す。
そして、メモを見る。
丁寧に書いた。
愛しい名前と住所を。
外に出ると、妙な湿り気を感じた。
空は晴れている。
けれど、雨だ。
目を凝らせば落ちる水の線があちこちにある。
霧雨。
僕はこの雨に何度複雑な思いを抱いたことか。
アルバムに残る懐かしい時代を想う。
早朝、雨が流れ落ちる様子が窓越しに見えた。
朝練中止の電話が来ればいいと思っていた。
眠気が消えない。
だるい体が休みたいと訴えていた。
僕は布団の中で粘った。
ベルは鳴らなかった。
不機嫌に起きて、僕は朝練に向かう。
外はほんのり湿っぽかった。
霧雨が漂っていた。
ああ、霧雨じゃ電話は来ないよな。
視覚は雨の区別をつけてはくれない。
じめじめする空気を体中に感じた。
僕は自転車に乗る。
さぼりたい。
そんなふうに思い浮かべたことなど、本心のフリをした偽りだ。
僕の希望を裏切った天気への反抗だった。
本当は、野球がやりたかった。
鋭く風を切っていった。
僕は角を曲がり、年をとったポストの前で立ち止まる。
葉書きを取り出す。
最後にもう一度名前を見て、ポストに入れた。
太陽がぎらぎら輝いていた。
真っ向から対立するように、歓声が球場を包み込む。
変わらぬ母校のユニフォームが眩しかった。
夏は真っ只中だ。
甲子園の切符をかけて、額に汗を滲ませた少年たちが戦いを繰り広げる。
一点を逆転されるか、逃げ切るか。
僕は球場を後にする。
背後で爆発した声。
決着がついた。
僕は早足になった。
歩き続ける。
実家から、20分少々歩いた所にあるあの場所まで。
期待していなかったと言ったら嘘になる。
唇まで名前が出かかっていた。
さすがに、今この時間にこの場所にいるなんてことはないよな。
沙雪(さゆき)・・・・・・。
いつも、ここに来ると雨だった。
雫一粒一粒が、一面の緑に跳ね返って音を立てていた。
雨ばかりだ。
鮮やかに覚えている。
あの時抱えていた複雑な気持ちは、全部それに飲み込まれてしまえばいいと思っていた。
誰もいない、誰にも見つからない場所を探していた。
道のない山を登った。
けっこう登ったつもりだけど、本当はたいして登っていなかったのかもしれない。
腰まである草を掻き分けたそこに、目を奪われた。
・・・・・・滝だ。
神様に祈るように、僕はそこに静止した。
「泣いてる?」
瞬間、僕は別の意味で静止した。
その空間に閉じ込められた。
このほうが、言い方としては正しい。
たった一部でも、僕の体が動き出すまで、声の主はそれ以上何も言わなかった。
おそるおそる振り返る。
女性が一人、立っていた。
「・・・・・・泣いてない」
一言だけ返した。
それも怒りの交じったキツイ口調。
「嘘」
返事は、微笑ましいような柔らかさを持っていた。
彼女は真っ直ぐ滝に向かう。
一枚の笹の葉が、手渡された。
思わずそれを受け取る。
通り過ぎた彼女が数メートル先で止まるのだと、僕は確信していた。
滝を受ける水辺。
彼女は止まらなかった。
かまわず水に入っていく。
「濡れるよ」
慌てて声をかけた。
彼女は振り返らない。止まらない。
とっくに濡れてた。
そうだ、彼女は傘も差していなかった。
緑に映える真っ白なワンピースを膝まであげて、彼女は腰を屈めた。
そこから、笹舟が出航した。
僕は掌の笹の葉に視線を向ける。
真似て、笹舟を流した。
けれど、僕の笹舟は水の流れから外れて、その場から動かなかった。
彼女が水をそっと押した。
笹舟が流れていく。
「さみしい?」
唐突な質問。
笹舟の行方を追えなくなる。
取り残されたような気分だった。
荒さを混ぜた「まさか」という言葉を飲み込んで首を振った。
それでもいいとも思ったからだ。
彼女は見ていなかったけれど、最初から答えはわかっていたようだ。
「なら、大丈夫」
彼女は笑った。
すっかり全身濡れて、長い髪を伝った雨が水面に小さな波紋を広げていた。
多い茂る木々で防ぎきれない雨が、視界をぼやかす。
「大切なのは、いつも光があるのを忘れないこと」
こんな天気で、光も何もあったもんじゃないと思った。
けれど、彼女の言うその『光』には、悲しさとか悔しさとか、放棄できない苦しみは勝てなかった。
僕らの夏は終わった。
ラスト一球の重さは計り知れなかった。
ボールを握った右手首の痛みなど、言い訳になりもしない。
握力が抜けていた。
駆け巡る試合場面に、顔をしかめた。
彼女は強張る僕の手を、冷たい水で包み込んだ。
あれからかなりの時を経た分、以前より滝は乏しくなっていた。
でも、ひんやりした水の冷たさは変わっていなかった。
空は水色。
灰色しか記憶のない僕には、変に思えた。
僕はあの雲に覆われた白と黒のコントラストが好きだった。
雨がうっとうしく感じていた頃もあったなんて、今じゃ想像もつかない。
いつか、雨音に耳が慣れ、いつか、その音を心地よく感じるようになっていた。
全部、沙雪がいたからだ。
ここには酸素が多い。
そりゃ、緑の中だから当然だろうけれど、僕は違う理由を隠すためにそう取り繕っていた。
「好きな色は緑」
てっきり白だと思っていた。
色白の肌に白いワンピース。
僕はきょとんとしていたらしい。
「ここの緑が一番落ち着く」
彼女はもう一言付け加えた。
「あなたは? ・・・・・・えっと・・・・・・」
彼女ははたと気づいた。
僕も順番のおかしさに笑った。
「自己紹介は名前が一番先だったね」
しとしと雨は降り続く。
「遠山沙雪(とおやまさゆき)」
ぴったりの名前だ。
なのに、似合わない。
今度は不思議そうな顔をしていたのかもしれない。
「最初は、こういう雨の日に生まれたから『雨音(あまね)』って付けようとしてたみたいだけど」
彼女はもう一言付け加えた。
そっちのほうが断然似合う。
彼女は、雨の似合う女(ひと)だ。
失礼にも、僕は心の中で断言していた。
彼女がそっと微笑んだ。
ポーカーフェイスができない自分を呪った。
雨は優しい。
僕の雨のイメージはすでに大きな変化を遂げていた。
僕から野球を奪う大嫌いだったものが、今は僕に安堵を与えている。
「あなたの名前は?」
ガサッ。
こすれあう緑。
後ろを振り返った。
期待が膨らむ。
沙雪・・・・・・。
僕に光を教えてくれた人を想った。
大切なのは、光を忘れないこと。
長い時を経ることになっても、いつか暗闇は照らし出されるから。
最後の草が掻き分けられた。
向き合った視線は、驚きを隠せないまま同時に放心する。
「・・・・・・久しぶり」
静止した。
「・・・・・・津久井(つくい)」
懐かしい顔だった。
僕は、かける言葉を探していた。
長い間伝えることのできなかった言葉は、素直に出てこない。
「どうしてここに?」
「イトコの家を訪れたら、これを見つけたから」
僕は目を見張った。
真っ白な葉書き。
たった一言。
それだけ記されている。
「イトコ?」
津久井は、一枚の葉を手にした。
何をしようとしているのか、すぐにわかった。
もうほとんど水の流れがない。
幾度も沈みそうになりながら、笹舟は何とか航海をしていた。
背丈のある草の真横。
笹舟は、小さな石に引っかかった。
座礁した。
津久井の表情は窺えなかった。
「俺もよくこの場所に来ていたんだ」
津久井が真っ直ぐ見た。
強烈な夏の陽射しに負けず、必死に野球に打ち込んでいた面影がある。
けれど、今はずっと穏やかな眼差しになっていた。
「笹舟、ちゃんと流せたか? 須藤(すどう)」
沙雪の言葉が脳を掠めていった。
「季節の変わり目にはいつもここに来るの。気持ちよく新しい季節を迎えるために、嫌な思い出を連れて行ってもらうの」
自分を許すことも、許しを請うこともできなかったけれど、そこには確かに光があった。
何かが溶けていくような気がした。
僕をずっと縛っていた何か。
喉が苦しかった。
熱いものが込み上げてきた。
「ああ」
僕はやっとそれを口にした。
「・・・・・・津久井、ごめん」
津久井は腕を差し出した。
僕らが試合のたびに、互いを励まし喜びを表したサインだ。
僕も同じに腕を差し出す。
トントントン。
3回ぶつかる。
「やっと帰ってきたな」
投手と捕手。
僕らは他校も恐れるバッテリーだった。
「今度、ソフトボールに誘われた。行ってみようと思う」
「お? マジで? 俺もやってるんだ。んじゃ、今度はライバルだな」
僕らは笑い合った。
それから知った。
「俺が10の時だったかな、沙雪さんが亡くなったのは。19だったと思う。優しい人だった」
驚いた。
不思議なことに、同時に納得もした。
「最近の日付だったから、びっくりした、これ」
僕は葉書きを受け取る。
遠山 沙雪様。
癖のある僕の字が、彼女の名前を語る。
「・・・・・・沙雪さんに、会ったんだな」
僕は葉書きを見つめた。
全部、霧雨の見せた幻だったのかもしれない。
「17の夏の終わりに」
高校最後の年にボールを握らなかったことも、野球部とのつながりを断ったことも、何もかも許せなかったことも、どれもがやっと心の中に居場所を見つけた。
大丈夫、光を忘れていない。
また、夏が終わる。
そして、新しい季節が始まる。
雨は降らなかった。
ここを僕が卒業したからだろう。
淡く色付き出した木々が、秋の訪れを知らせていた。
冷たい水に手を突っ込んだ。
今にも流れを止めそうな滝に、礼を言った。
僕が葉書きに書いたたった一言を。
ありがとう。